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仮面ライダーにハマる母の独白

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じつは私はバンギャに始まり、若手俳優の登竜門と言われる某庭球2.5次元ミュージカル俳優の追っかけもしながら、就職してからは更に週3はクラブから家に戻らずそのまま仕事にいくパリピという、自分でもハイブリッドと思うような生活を大学時代から結婚する三年前までやっていた。

バンギャの方ははやりきった感があり大学卒業前に引退。
若手俳優の追っかけに振り切っていくんだけど、だからこそ、最初、息子が仮面ライダーを好きになったときに、よく見かける母が仮面ライダー俳優のファンになってしまって一緒にはまる、というお決まりパターンは自分には訪れないと思っていた。



なぜなら、イケメンを本当に追いかけ尽くしてやるだけやったという、達成感が自分の中にあったからだ。
誇れる達成感ではないが、自分のなかではもう、完全にやりつくしたのだ。


実際に息子が仮面ライダーにはまったきっかけの仮面ライダージオウから遡って、ビルド、エグゼイド、ゴーストと見て俳優さんをめっちゃ好きになったというのは、今のところ無い。

ただ、仮面ライダーは本当にストーリーが面白い。
仮面ライダーのフォルムも好き嫌いが別れるところだと思う。
私は変身音フェチになりつつある。
そして俳優さんが好きすぎて写真集とか買っちゃう~♥️、てことは全然無いけど、その俳優の演じるキャラクターを好きになってしまっている自分がいる。


仮面ライダーのストーリーに共通の課題として降りかかってくるものの1つとして、仲間の(もしくは、この先仲間となる)ライダーとの衝突を乗り越えなければならないというシーンがある。

それに関しては、大体どちらかは戦いたくない。
でも戦わなければならなくて、何度も衝突してゆく過程で想いを伝えながら戦って仲間になったり認めあったりする。

なかなかに人間関係でもありうる展開だ。
でも、実際の人間関係では真っ向と戦い合うなんてほとんどない。

自分自身、嫌な人がいたとしてうまく受け流すか、無視を決め込むかしかない。

中学の時に体育館裏来いよ、なーんて流れになって喧嘩でやり合うなんて事は結構あったが、大人になればそんなことはない。

波風立てないように生きるしかない。


解り合えるまでとことん戦って最後には解りかえる、という一連の流れには凄く、自分の中にはない、自分にはできない、という眩しさがある。

まっすぐに人と向き合って戦っても最後には友になれるというその希望が現実に生きる私にはとにかく眩しい。

先日の記事でジオウとゲイツの戦いに触れたがそれなんかまさにそうだ。

そんな風にまっすぐに生きれない自分だからこそそういうシーンに胸アツになるのかもしれない。




そして、平成仮面ライダーは大体1人の仮面ライダーが何段階にも変身していく。

次の形態へ進化するときのトリガーとして、自分の弱さを認めたり受け入れて、それでも前に進むと決意すること、が、挙げられるように感じている。
(勿論例外もありますが。)

仮面ライダージオウで言えば、主人公のソウゴが龍騎編の最中にジオウツーになる。

その時に、
自分のイヤなところも全部受け入れる。
そして、未来の自分に賭ける!
という趣旨の事を自分に誓うと、新フォームになれるのだ。

それは仮面ライダーゴーストでも、ゴーストが∞になるときでもしかり、ビルドがラビットドラゴンフォームになるときも然りだったと記憶している。

自分の中の弱さを乗り越え、先に進むと決める。

それも、なんか私には眩しい。
そんな決断をできる仮面ライダーのキャラクター達を尊敬するし、かっこいいと思うほどには眩しい。

もしかしたら、自分達の生活のなかで、例えば旦那なんかも仮面ライダーのように苦悩しながらもそれを乗り越えて契約の1本でも取って来てるのかもしれない。

でも、それを、私は知らないし、生活のためにやらんかい。となる。

仮面ライダーは、もっと大きな枠で生きてるのだ。

人類の命を奪うゲーム病の鎮静化や、地球外生命体から地球を守るために。

ドラマチックだ。
それに、それはエヴァンゲリオン碇シンジのように、イヤイヤ選ばれてやってるのではないのだ。

自分が仮面ライダーとして人類を守ると決めてやっている。
そんなことって、あるかよ。と思う。

何て強いんだよって。
おいおい、嘘だろ。って。

明日の地球を投げ出せないから、って歌詞、(ビルドのオープニング曲です。)マジでその通りの男なのかよって。

その強さは、私にはない。



桐生戦兎や天空寺タケルのように、人のためや世界のために自分を差し出せる勇気や強さを持ち合わせていないのだ。


くそっ、眩しすぎる。



のらりくらりと戦わずに生きている、そんな自分のコンプレックスを仮面ライダーで補完している。
そういう部分があるのでもしかしたら子供よりも夢中になる自分がいるのかもしれないと思っている。


子供は結局そんなドラマの部分にはフォーカスしておらず、やれ新しい技や、新しいアイテムや敵や仲間やというところに気を取られていて、ドラマの部分はあまり興味がないのが実情だ。

でも私はそのドラマの部分、キャラクターの持つ背景やそこから来る葛藤なんかにハマる。
だからこそ終わりが来たときに、かなり絶望する。

DVDで見直すことはできるが、その人物が好きなのだ。
例えば天空寺タケルのその先が見たい。
マコト兄ちゃんやアランとはどうやって過ごしているのか。
残ったゴーストの力でどうやって人を救うのか。

天空寺タケルが好きなんだ。

でももうその世界線が続くことはない。
一年間、決められた時間の中でループさせるしかない。
ずっと続いて欲しい位、その世界がもう好きになってしまっているから、その気持ちを消化するのに時間がかかってしまう。

親がそんなになってるそばで、子供はすぐに次のライダーを見て喜べる。
そしてまた、おもちゃが増えるのだ。

たくさんのおもちゃの思い出よりも、大人になったときに、私が胸アツになっているような人間の強さの結晶ような部分を息子に少しでも覚えていて欲しい。

まっすぐな世界じゃないからこそ、仮面ライダーの世界の中の潔い正義や、自分を信じて踏み出せる強さが、痛いくらいに眩しい。


そんなこと思いながら、今日もガンバライジングのカードゲーム機に息子にねだられて100円を入れている母が、此処に在り。