どうも、むーむーです。
コロナが猛威を奮ってますね。。
特に、東京の劇場で起きたクラスターは記憶に新しいのでは。
そんな、劇場でのクラスターに一つの田舎が大騒動だそうです。
そこに、田舎の怖さがめちゃくちゃ詰まってました。私が地元の友達一人を覗いて縁を切り、同窓会名簿にも載せてくれるなと言って拒否した狭い社会の窮屈感です。
たった1人の感染者が地方都市にコロナを持ち込むとどうなるか?《島根で実際に起きた“舞台クラスター”波及騒動》 | 文春オンライン
なんともいえない窮屈感
コロナの件に関しては、触れないようにしようと思うのですが、この記事を読んで感じるのが田舎特有の狭い世界の中で、生きなければならない苦しさです。
いつでもどこでも何をしていても地域の人に監視されているような窮屈感。
それが嫌で嫌でしょうがありませんでした。
村八分なんて言葉はなくても似たようなことは起こってる。
それが田舎です。
集落の集まりを休んだら駄目
集会所の修復費を拒んだら駄目(ウン十万レベル)
とか、色々ですが、田舎の変な暗黙ルールも多いはずです。
それに、年寄りは暇ですからそういうのを破った人たちのことを言いふらしながら歩き回ります。
変な連帯感
記憶に深く残ってる出来事があります。
ある日の夜中、地域のサイレンみたいなのが鳴りました。
何かと思えば〇〇さんの家のお爺さんがいない、と。
認知症のお爺さんが抜け出してしまったって言うので鳴らしたんです。
警察呼べよ。
と、子供ながらに思いました。
でも、夜中に大人の男達がずーっと探すんです。
警察呼ばずに。
知らんとこのお爺さんを。
私にはそれがすごく違和感でした。
結局田んぼの真ん中で寝てるお爺さんを発見して父が帰ってきました。
なんで、消防や警察に連絡しないのか、わざわざ地域のサイレンを鳴らしてみんなを起こすのか、今でも認識私の中ではずれています。
江戸時代に5人組って制度がありましたよね。
その制度そのまま残ってるかのような息苦しさがあったんです。
だから、子供心に松本清張の砂の器を読んだときやっぱり田舎って残酷だなってぼんやり感じたのを覚えています。
都会なんて隣が何してるかも知らない人同士が住んでいて、すごく気が楽だなぁって思いますね。
どこの誰がどこで何をしていたのか知っている
みんな顔見知りでわかっちゃってる。
だからこそ隣のおばちゃんが、私の中学時代の恋模様だって知っている。
そんな狭い世界の中で自由にやりたいことをやれるかというとそうじゃなかったんですね、私は。
地域の中で後ろ指差される感じ。
ヤンキーは一生田舎のヤンキーというレッテルがついて回り、実際それにふさわしいような生き方になっていってしまう。
そんな雰囲気が嫌で嫌で田舎を出たんだと思い出しました。
でも、それが好きな人も勿論いるんですよね。
地域全体が家族みたい!
って。
でも、私は足を引っ張られるように感じてたし、自由に誰も知らない所で生きたいって思っていました。
だから、出ていったしもう少し田舎に住みたいな〜、と思っても地元ほどの田舎じゃない。
今回コロナに感染してしまった女の子のニュースをみて、苦い思いになりました。
田舎は田舎で、ずっと変わらないんだなぁって。
私は、そこでは息苦しくて暮らせなかったという自分語りの記事でした。